2009年06月17日

バニラ(vanilla、学名 Vanilla planifolia)は

バニラ(vanilla、学名 Vanilla planifolia)はラン科バニラ属の蔓性植物。または、その植物から抽出された香料のこと。種小名はラテン語で「扁平な葉」を意味する。

原産はメキシコ、中央アメリカといわれている。栽培はマダガスカル、メキシコ、グアテマラ、ブラジル、パラグアイ、インドネシアなど。

蔓(茎)は樹木やそのほかのものにからんで成長していく。長いときは60mを超える。種子は香料の原料となるが、収穫した豆(種子鞘)には香りはない。ここから発酵・乾燥を繰り返すキュアリングを行う事によって初めて独特の甘い香りがするようになる。鞘の中には非常に微細な黒色の種子が無数に含まれている。

日本国内でも観葉植物として苗が流通することがあり、植物の入手自体はそれほど難しくない。しかし栽培には冬期に高い温度を必要とすることと、大きな株にならなければ開花しないこともあり、個人栽培で開花・結実させるのは難しい。
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香料 [編集]
バニラ・ビーンズ、バニラ・エッセンス、バニラ・オイルの三種類がある。

バニラ・ビーンズはその名の通りバニラの種子のことであるが、種子を含んだ種子鞘ごと発酵・乾燥を繰り返すキュアリングを行うことによって初めて香料となる。原料として主に使用されるのはバニラ (Vanilla planifolia) の種子鞘で、この他に品質は少し劣るものの、同じバニラ属であるニシインドバニラ(V. pompona)も原料として利用される。

バニラ・エッセンス、バニラ・オイルは成分を抽出して溶剤にとかしたものであるが、バニラ・ビーンズは非常に高価(一本数百円)なため、人工的に合成された成分を大なり小なり溶かした物が多い。この為人工香料を使わず、酒類にバニラ・ビーンズを直接漬け込み作られたバニラ・エッセンスは特にバニラ・エキストラクトと呼ばれ区別される。

2009年05月31日

藤原広嗣の乱

藤原広嗣の乱(ふじわらのひろつぐのらん)は奈良時代の内乱である。政権への不満から九州の大宰府で藤原広嗣が挙兵したが、官軍によって鎮圧された。

天平9年(737年)朝廷の政治を担っていた藤原四兄弟が天然痘の流行によって相次いで死去した。代って政治を担ったのが橘諸兄であり、また唐から帰国した吉備真備と玄昉が重用されるようになった。藤原氏の勢力は大きく後退した。

天平10年(738年)藤原宇合の長男・広嗣(藤原式家)は大養徳(大和)守から大宰少弐に任じられ、大宰府に赴任した。広嗣はこれを左遷と感じ、強い不満を抱いた。

天平12年(740年)8月29日、広嗣は政治を批判し、吉備真備と玄昉の処分を求める上表を送った。

9月3日、広嗣が挙兵したとの飛駅が都にもたらされる。聖武天皇は大野東人を大将軍に任じて節刀を授け、副将軍には紀飯麻呂が任じられた。東海道、東山道、山陰道、山陽道、南海道の五道の軍1万7,000人を動員するよう命じた。4日、朝廷に出仕していた隼人24人に従軍が命じられる。5日、佐伯常人、阿倍虫麻呂が勅使に任じられた。

朝廷からは伊勢神宮へ幣帛が奉納され、また、諸国に観世音菩薩像をつくり、観世音経10巻を写経して戦勝を祈願するよう命じられた。

9月21日、長門国へ到着した大野東人は、同地に停泊している新羅船の人員と機器の採用の許可を求めた。

9月22日、勅使佐伯常人、阿倍虫麻呂が隼人24人、兵4,000人を率いて渡海して、板櫃鎭(豊前国企救郡)を攻略。登美、板櫃、京都三鎮の兵1767人と兵器多数を鹵獲した。

広嗣は企救郡の隣の遠珂郡に到着して烽火を発して国内の兵を徴集。広嗣が大隅国・薩摩国・筑前国・豊後国の兵5000人を率いて鞍手道を進軍、弟の綱手は筑後国・肥前国の兵5000人を率いて豊後国から進軍、多胡古麻呂が田河道を進軍して三方から官軍を包囲する作戦であった。

9月25日、豊前国の諸郡司が500騎、80人、70人と率いて官軍に投降してきた。

9月29日、「広嗣は凶悪な逆賊である。狂った反乱を起こして人民を苦しめている。不孝不忠のきわみで神罰が下るであろう。これに従っている者は直ちに帰順せよ。広嗣を殺せば5位以上を授ける」との勅が九州諸国の官人、百姓にあてて発せられた。
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10月9日、広嗣軍1万騎が板櫃河(北九州市)に至り、河の西側に布陣。勅使佐伯常人、阿倍虫麻呂の軍は6,000人余で河の東側に布陣した。広嗣は隼人を先鋒に筏を組んで渡河しようとし、官軍は弩を撃ち防いだ。常人らは部下の隼人に敵側の隼人に投降を呼びかけさせた。すると、広嗣軍の隼人は矢を射るのをやめた。

常人らは十度、広嗣を呼んだ。ようやく乗馬した広嗣が現れ「勅使が来たというが誰だ」と言った。常人らは「勅使はわれわれ佐伯常人と阿倍虫麻呂だ」と応じた。すると、広嗣は下馬して拝礼し「わたしは朝命に反抗しているのではない。朝廷を乱す二人(吉備真備と玄昉)を罰することを請うているだけだ。もし、わたしが朝命に反抗しているのなら天神地祇が罰するだろう」と言った。常人らは「ならば、なぜ軍兵を率いて押し寄せて来たのか」と問うた。広嗣はこれに答えることができず馬に乗って引き返した。

この問答を聞いていた広嗣軍の隼人3人が河に飛び込んで官軍側へ渡り、官軍の隼人が助け上げた。これを見て、広嗣軍の隼人20人、騎兵10余が官軍に降伏してきた。投降者たちは3方面から官軍を包囲する広嗣の作戦を官軍に報告し、まだ綱手と多胡古麻呂の軍が到着していないことを知らせた。

その後、広嗣軍は板櫃河の会戦に敗れて敗走した。広嗣は船に乗って肥前国松浦郡値嘉嶋(五島列島)に渡り、そこから新羅へ逃れようとした。ところが耽羅嶋(済州島)の近くまで来て船が進まなくなり、風が変わって吹き戻されそうになった。広嗣は「わたしは大忠臣だ。神霊が我を見捨てることはない。神よ風波を静めたまえ」と祈って駅鈴を海に投じたが、風波は更に激しくなり、値嘉嶋に戻されてしまった。

10月23日、値嘉嶋に潜伏していた広嗣は安倍黒麻呂によって捕らえられた。

11月1日、大野東人は広嗣と綱手の兄弟を、肥前国唐津(現・佐賀県唐津市)で斬った。

乱の鎮圧の報告がまだ平城京に届かないうちに、聖武天皇は突如関東に下ると言い出し都を出てしまった。聖武天皇は伊賀国、伊勢国、美濃国、近江国を巡り恭仁京(山城国)に移った。その後も難波京へ移り、また平城京へ還って、と遷都を繰り返すようになる。遠い九州で起きた広嗣の乱を聖武天皇が極度に恐れたためであったとされる。

天平13年(741年)1月、乱の処分が決定し、死罪16人、没官5人、流罪47人、徒罪32人、杖罪177人であった。藤原式家の広嗣の弟たちも多くが縁坐して流罪に処された。

2009年04月27日

計画の推移

2006年9月22日21時36分(UTC)、M-Vロケット7号機で打ち上げられ、近地点高度約280 km、遠地点高度約686 km、軌道傾斜角98.3°の初期軌道に投入された。打ち上げ16時間後に、XRTの蓋が加熱により開くというトラブルが発生したが、この蓋は地上から軌道上に至るまでのあいだ望遠鏡を保護するためのものであるため、問題とはならなかった。9月27日から10月3日にかけて軌道の変更を行い、高度約680 kmの太陽同期軌道を廻る最終的な軌道に移行した。
10月14日にSOTの排熱孔が開放された。
10月16日にXRTとEISの電源が投入された。10月17日から18日にかけてSOTの検出器の電源が投入された。10月24日までに観測機器の動作チェックと較正データの取得が行われた。
10月25日にSOTの蓋開けが行われた。10月27日と28日にEISの二つの蓋が開放され、蓋空けオペレーションが全て終了した。ファーストライト画像は10月31日に公開された。
11月9日 水星の日面通過観測。
11月27日 可視光および磁場望遠鏡の初期観測結果が公開された。望遠鏡の口径(50cm)で定まる回折限界性能を達成し、光球表面や彩層の様子を克明に捉えた画像も公開された。特に、カルシウムH線で連続撮影された黒点周囲からのダイナミックな噴出現象をムービー化した映像は、多くのマスメディアにて報道された。
2007年5月27日 ひのでの全観測データの公開が開始された。宇宙航空研究開発機構(JAXA)と国立天文台(NAOJ)が共同開発した「DARTS/HINODEデータ検索/配布システム」を使用して提供される。また、「ひので最新画像」ページも公開され、毎日、日本時間の正午に、前日にひのでによって撮影された太陽の全面画像などが掲載される。

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12月7日 アメリカ科学振興協会発行の学術雑誌「サイエンス」の「ひので特集号」が発行された。ひのでの撮影した映像が表紙を飾り、9本の論文が掲載された。太陽風の加速機構の解明に重要な太陽風の吹き出しの様子をXRTで捉えた映像や、これまで謎とされていたコロナ加熱問題[1]を解き明かすための仮説のひとつである「アルベン波」(別名:アルヴェーン波)を世界で初めて直接捉えた映像などが掲載されている。

予定
+ 2ヶ月、初期観測開始。
+ 6ヶ月、公募観測開始。
+ 1年、カタログスペック上の寿命。

2009年04月11日

流星

流星(りゅうせい、meteor, shooting star)とは、天体現象の1つで夜間に天空のある点で生じた光がある距離を移動して消える現象である。一般的に流れ星とも呼ばれる。原因としては流星物質と呼ばれる太陽の周りを公転する小天体が、地球(または他の天体)の大気に衝突、突入し発光したものである。

-3等から-4等程度よりも明るい流星は、火球と呼ばれる。中には満月より明るい光を放ち、夜空全体を一瞬閃光のように明るくするものもある。

流星の元になる小天体は、0.1mm以下のごく小さな塵のようなものから、数cm以上ある小石のようなものまで様々な大きさがある。こうした天体が地球の大気に秒速数kmから数十kmという猛スピードで突入し、上層大気の分子と衝突してプラズマ化したガスが発光する(小天体が大気との空力加熱などにより燃えた状態が流星として見えているわけではない)。これが地上から流星として観測される。通常流星は地上より150kmから100km程度の高さで光り始め、70kmから50kmの高さで消滅する。しかし、元の小天体が特に大きい場合などには、燃え尽きずに隕石として地上に達することがある。なお、見た目に消滅する場合にも流星塵として地球に降り注いでいる。

流星の元になる小天体は、主に彗星から放出されたものである。彗星は太陽に近づく度に無数の塵(小天体)を放出している。これらの塵は太陽の周りをほぼ彗星の軌道と同じ軌道で公転する。その残された塵が地球に降り注ぐことで、流星を発生する。

これに対して、主に小惑星軌道から来たものは通常の流星よりもかなり明るく輝き、火球と呼ばれる。まれに隕石となって地上に落下する天体は、小惑星軌道の物が多く、空で観察された場合には火球となって飛んでいることになる。火球はその明るさのため夜間だけではなく、昼間に観察されたり撮影された場合もある。それに対して流星は大気圏内で燃え尽きるため、地上に直接落下するものはなく、小さなちり(宇宙塵)となって地上にふりそそぐ。

流星が流れた後の大気はイオン化され電離層が発生する。この電離層が電波を反射させて、遠方にあり通常では聞こえることがないFM放送を短時間だけ聞くことができる。このことを利用して、流星電波観測などが行われている。最近では、電波を常時送信するアマチュア無線ボランティア局の電波を利用して、同様の観測が行われている。

毎年ある決まった時期になると、天球上のある1点から流星が放射状に飛び出してくるように見える事がある。これを流星群と呼ぶ。これは主に彗星が通った後に残された塵の集合体がある空間に、地球が公転運動によって差し掛かる事により発生する現象である。また、流星が飛び出してくる点を放射点、または輻射点と呼ぶ。年間数十個以上の流星群が知られている。流星群に属する流星を群流星と呼ぶ。これに対して、流星群に属さない流星は散在流星と呼ばれる。同じ流星群に属する流星は速度などが同じようになる傾向がある。

流星を観測する方法としては、流星電波観測、流星眼視観測、流星写真観測、流星TV観測がある。

静止(停止)流星 [編集]
完全に観測者の方向に流星が飛んでくる場合には、流星は「突如明るい星が発生し、それが暗くなって見えなくなる」ように見える。これが静止流星あるいは停止流星という。通常の流星の太陽系での軌道を計算するには、同一流星を複数の観測地点で撮影し、発生点と消失点を空間上で明確にすることが必要であるが、静止流星の場合は、その位置がきちんと観測できれば、その静止流星の太陽系での軌道は容易に計算できる。

一般には地上に落ちた流星が隕石であると捉えられているが、流星と隕石の太陽系内の軌道は明確に違っている。軌道がはっきりと観測された隕石は4例しかないが、それらは全て小惑星帯のものであり、隕石の起源は小惑星帯であることが予想されている。また、流星の軌道は彗星と一致するものがほとんどで、彗星が通ったあとの塵が流星の発生源となることが予想されている。

流星は大気圏内で燃え尽きる、また地上のある地点に向かう流星の発生する確率は低いので、観測者にぶつかる心配はまずない。隕石が人間にぶつかったとされる例は、1954年のアメリカのアラバマ州シラコーガに住むアン・ホッジスの例と2002年8月22日のイギリスの北ヨークシャーのSiobhan Cowtonの例がある。

流星にまつわる伝説や逸話 [編集]
その神秘的な現象から、流星に関しては様々な伝説や逸話が存在する。日本国内において最も有名なのが「1つの流星が輝いている間に願い事を3回唱えると、その願いが叶う」というものであるが、当然ながら明確な根拠は無い。なお、流星が発生するタイミングは確実に掴めるものではなく、また流星1つが発光している時間は、通常1秒前後のひじょうに短い間であり、その間に3回も願い事を唱えるのは不可能に近い。ただし、ごく稀に数秒にわたって発光する流星もあり、これを運良く見ることができれば願い事を3回唱えることも不可能ではない。この他、「流星を見たら3回唾を吐かなければ不幸になる」といったものや、「星が遊んでいる様子」などといった話もある。三国志演義では諸葛亮の陣営に赤く大きな流星が3度流れたという。これにより、諸葛亮は自分の死を察知するという物語があるが、この話は中国で長く語り継がれ、流星と人の死を結びつける考えも、この物語から発生する。

また、アンデルセンの童話「マッチ売りの少女」では少女の亡くなった祖母が話した「流れ星は誰かの命が消えようとしている象徴」との言葉が出てくる。

流星の音 [編集]
流星が流れたときに音が聞こえるという現象がある。明るい流星が流れた際に、音が聞こえた、ということを本に書いている人が多数いる。しかし、流星が輝いている高度は100km前後であり光ってから音が届くにはかなりの時間がかかる(雷が光って時間がたってから音が聞こえるように)。

1980年台までは、流星の音は心理的なものであるとされてきた。

オーストラリアのニューカッスル大学のコリン・ケイ (Colin Keay)は1980年に流星の音に関する論文を発表した。 彼の考えではある程度の高度以下まで突入した大火球によって、プラズマの乱流ができる。この乱流プラズマは、地球磁気圏の磁力線にからみつき、ひきずる。直ちにプラズマが冷えるとともに、乱された状態の磁力線ももとにもどる。このときに極めて低い周波数の電磁波が発生し、光の速さで地上に達し、観測者の近くの物体がその電磁波に揺さぶられれば、同じ周波数の音が出る。

電磁波が誘発する観測者周囲の物体からの音というものがはたして聞こえるのかどうかについても、ケイは実験を行った。その結果、髪の毛やめがねのふちなど、身のまわりのありふれたものが低い周波数の電磁波に反応すること、その音が聞こえる人と聞こえない人がいることなどが分かった。 大火球から、たいへん低い周波数の電磁波がでることも観測で明らかになり、ケイの考えが支持されるようになってきたが、どのようにして電磁波が発生するかのメカニズムに関してはまだ正確なことは分かっていない。

1998年11月のしし座流星群を、モンゴルで観測した研究者は、火球と同時に聞こえる音の録音に成功した。

色々な流星 [編集]
流星の元になる小天体の内部物質の燃焼により、流星に色がついて見えることがある。また、燃焼の過程で色が変化する場合もある。

流星が一旦暗くなりかけて、また明るく輝いたり、一旦全く見えなくなってまた光って見えるものも報告されている。

流星の元になる小天体の形によってか、流星が曲がって飛ぶ場合があることが報告されているが、はっきりとは確認されていない。

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2009年03月27日

ヴァイキング後裔国家

ルーシ原初年代記によるとリューリクとその息子たちは東スラヴの各部族に要請されて一帯の統率者となり、860年から880年にかけてノヴゴロド公国やキエフ大公国に新しい公朝を立てた。ただし、これは伝承的色彩の濃い史料に基づいており、リューリクが果たして本当にスウェーデンから来たヴァイキングだったのかを含めて、15世紀まで不確実性が残るが、いずれにせよこの一帯に定住したヴァイキングは次第にスラヴ人に同化して消滅していった。11世紀のデンマーク王族カヌートは父がヴァイキングを先祖とするデーン人で母が西スラヴのポーランド人の王族であるがイングランドとデンマークを結ぶ北海帝国の主となり、カヌート大王(1016年〜1042年)と呼ばれる。ノルマンディーの騎士ロベール・ギスカールは1059年、南イタリアに渡り、その子孫たちは後にスペインに支配されるまでノルマン朝(オートヴィル朝)シチリア王国を築くことになる。イタリアに渡ったノルマン人のうち、ターラント公ボエモンは、第一次十字軍に参加し、1098年アンティオキア公国を建国した。ノルマンディー公ギョームは1066年にアングロサクソン・イングランドを征服(ノルマン・コンクエスト)し、ノルマン王朝を築いた。ノルウェー人の築いた植民地は、アイスランドの植民の成功を除き、全て13世紀から16世紀までに、北欧本国からの連絡が途絶えてしまったとされる。しかしその後も僅かながらの「白いエスキモー」、「金髪のエスキモー」に遭遇したと言う、船乗りたちの話が北欧に伝えられたのである。しかしヴァイキングの活動は急速に失われつつあった。イングランド、ノルマンディー、シチリア、あるいは東方に向かったヴァイキングたちは、その地に根付き、王となり、貴族となり、初期のヴァイキングの自由、そして独立した精神が失われてしまったのである。13世紀までには、殆どのノルマン人は消滅し、あるいはそれぞれの国・地域に同化していったのである。
パンチ ナビスパ キログラム ユーロ 風花 スマート ラビット リュクス リバー ナビピ スタチオ パラダイス 朝の山道 タイム すいば レバー クニカル ハイレ アーマー マレーシア まーこ ビフテキ 生かす マラケ 自然薯 ボック プラチナ ライフプ オマーン ドーハ 道しるべ オーガ うみわに ミーズ あかちゃ トロンボ 逢坂の関 スポッ シティ ミックス ドマーク ジニーメイ スプレッド はっさく フリート フォトン ブレード シアトー タイム ハウス

関連項目 [編集]
ノルマン人(北ゲルマン人)
デーン人
ノース人
スウェーデン人(スヴェア人)
アイスランド人
ルーシ族(ヴァリャーグ)
サガ(ノルマン人の伝承)
エッダ
北欧神話
スカンジナビアの歴史
フィンランドの歴史
イギリス史
イタリアの歴史
バルカン半島の歴史
フランスの歴史
ウクライナの歴史
ロシアの歴史

2009年03月12日

ヴェネツィアとその潟

ヴェネツィアとその潟(-かた)は、イタリアのヴェネツィアの世界遺産登録物件名。

ヴェネツィアは、5世紀頃、ゲルマン族の進入から逃れるために、当時湿地帯であった場所に街を作ったのが始まりといわれている。その後、海洋貿易での立国を目指した。十字軍の遠征による権益の拡大、ジェノヴァ共和国との戦争で繁栄は最高潮を迎えた。また、ルネッサンス時代には、ヴェネツィア派と呼ばれる画家を輩出した。アドリア海の女王とうたわれたヴェネツィアも他のヨーロッパ諸国が地中海貿易に進出するに至った上に、大航海時代が始まり、アメリカ大陸や日本の発見などによって貿易の中心が大西洋や太平洋といった外海に移った事によって衰退に向かう。18世紀には一年の半分をカーニバルで過ごす歓楽の都と化してしまった。

ヴェネツィアの街は100以上の島々が、およそ400の橋と150をこえる大小の運河で結ばれている。潟の上になるヴェネツィアは、常に治水対策が重要課題であった。近年は、丸太の杭を潟に打ち付けてそれを建物の土台にする工法の最大の欠点(時間が経つにつれ沈下する事を免れない)と、地下水の汲み上げによる地盤沈下が大問題となっている。更にそれに追い討ちを掛けるように地球温暖化による海面上昇により、水没の危機にさらされている。
セッサカー リネーム ソテー トラック きょうお チップ ゴブラン サンファ デリバリー プレー スパンキ ラシン カーレース シリコンウ リテーラー フォワ フラン アデニ ジャケット コスミド クロロ いいだこ ニポポ あしべつ ファゴット トニア ソックス スンニ ロジカル ほうゆう むろね ヒッピー バックホ リラックス せれべす かばん ライ麦 ツアー わらぐつ チャクラ カード キミと僕 ハーフマラ ももいろ コータロウ スンダ 恋模様 ターボ カゼイン メルシ

ヴェネツィアの中心街にある建築物以外にも、ヴェネツィアン・グラスで有名なムラーノ島、レース編みで有名なブラーノ島、島全体が墓所となっているサン・ミケーレ島も世界遺産物件として登録されている。

文化遺産の登録基準をすべて満たしている(他には、敦煌にある莫高窟。また単純な文化遺産としてみた場合、自然遺産との複合では泰山が文化遺産の基準のすべてに加えて自然遺産の条件をひとつ満たしている)。

主な構造物
サン・マルコ広場
サンタ・ルチア駅前からボートでカナル・グランデを下り、アドリア海に出る所にある広場。ヴェネツィアの表玄関で街の中心。ナポレオン・ボナパルトが「世界で最も美しい広場」と評したといわれている。

サン・マルコ大聖堂]
ヴェネツィアの代表的な建物。ビザンティン建築の代表的な建物でもある。もともとは、聖人マルコの遺骸を収めるため9世紀頃に建造。11世紀に改築が始まり約400年かけて現在の形になった。

聖堂内はビサンティンとロマネスク様式の混合したモザイクで飾られている。
ヴェネツィア共和国時代に総督公邸として使われていた。もともとは要塞であった。しかし火災での炎上などにより何度も改装されて15世紀頃に現在の白の柱とピンクのタイルが印象的なゴシック建築物となった。

内部には歴代のヴェネツィア総督の肖像画など沢山の絵画が飾られている。特に2階の大評議室にあるティントレットの油絵『天国』、ベロネーゼの『ヴェネツィア礼賛』は有名である。

ドゥカーレ宮殿の裁判所と監獄を結ぶ橋は、ため息の橋と呼ばれている。

カナル・グランデの建築群
カナル・グランデ(大運河)は世界でもっとも美しい通りとも呼ばれ、運河の両岸にはロマネスク、ゴシック、ルネッサンス、バロックと様々な様式の建築が建ち並ぶ。

ヘの字のような形が特徴。長さ48m、幅22mで通路は階段となっている。アントニオ・ダ・ポンテの設計で1591年に完成した。ミケランジェロが設計したという説もある。石造で白い巨象ともいわれた。

フランケッティ美術館
フランケッティ美術館はまたの名をカ・ドーロ(黄金の館)と呼ぶ。マンテーニャの『聖セバスティアヌス』が所蔵されている。

ヴェネツィア郊外の島

ムラーノ島
ベネチアの北東約2kmにあるムラーノ島はヴェネツィアングラスの産地として有名である。ヴェネツィアの主要な輸出品であったガラス工芸品の作成技術を他の国に流出することを恐れたヴェネツィア政府がムラーノ島に職人達を集めたのが始まりといわれる。現在でも100を越える工房があり、見学も可能。

ブラーノ島
ベネチアの北東約9kmにあるブラーノ島はレース織の工房があることで有名である。また島は漁師の島としても有名で、海から自分達の家が判別しやすいようにカラフルなペイントが施されている。

2009年02月23日

マラーティー語 (Marathi)

マラーティー語 (Marathi) は、インド・ヨーロッパ語族に属し、インド西部のマハーラーシュートラ州の公用語である。しかしこの言語を話す人々は、隣接するゴア州、グジャラート州、アーンドラ・プラデーシュ州などにも多数居住し、全体で、9,000万人ほどの言語使用者がいると算定されている。
ルント シャイ インタン トラム バプ 冬の枝 ハニー はしかみ スタッ ロルプロ トザウルス マリオ ロール ライカ カースト 花月 フェンシ モリブデン マジック おんかま シッキ サンドバ ニング ワラント サウスポー ミール きんしゃ ブランチ プロジ タッグ れんおん シルク チャカレ ヒュンダ くわのじつ ストラ 空を見 シャー リチャ 黄砂 オープン オリンズ ジブチ わどまり あずきいろ パリティ ビーフン コクト ひしがた バカラ

マラーティー語は、ヒンディー語、ウルドゥー語に類似した言語であり、ヒンディー語、サンスクリット語などと同様に、デーヴァナーガリー文字を使って言葉を表記する。母音は11あるが、母音の発音、子音の発音共に、幾らか異なる点もあるが、ヒンディー語とほぼ同様である。

もっとも古いマラーティー語の記録は、カルナータカ州にあるジャイナ教神殿の大神像の足に掘られた文字だと考えられており、これは、10世紀である。その後、優れた詩人が輩出し、民族の信仰の詩をこの言葉でうたった為、言葉として洗練された。しかし、14世紀には、イスラム教を奉じる諸スルタン王国が西インドで成立し、ペルシア語、アラビア語の語彙が、多数、マラーティー語中に混入した。

17世紀中後葉、チャットラパティ・シヴァージーによって、マラータ王国が築かれると、スルタン諸王国に対する戦いと、マラーティー語を民族の言葉として重視する民衆運動が起こった。やがて、王国の首都近郊の言葉を中心に、マラーティー語の標準語化が起こった。

マラーティー語は、文法構造において、ヒンディー語、ウルドゥー語と同一な部分が多いが、ヒンディー語は名詞の性に男性と女性しかないのに対し、マラーティー語は中性名詞があり、名詞の性別においては、ヒンディー語、ウルドゥー語とはかなり異なっている部分がある。そのため、ヒンディー語、ウルドゥー語から直ちに、マラーティー語へと理解が進む訳ではない。

文化的背景
州名ともなっている、マハーラーシュトラ とは、一説では、「マハールの国」を意味する[要出典]ともされる。しかし「マハール」とは、インド西部のこの地方において、最低カーストの「不可触カースト」の最大の共同体の名前でもあった。インドにおけるカーストの問題、とりわけ「不可触カースト(アチュート)」として差別され、抑圧された人々の問題に、もっとも敏感であり、活発な差別反対運動を行ったのが、このマハールの人々であった。

※しかし、一般的には「マハー 」(「偉大な」)+「ラーシュトラ (「国・地域」)の意味であると考えられる。

マラーティー語を使って記された、反カースト差別の詩や小説は、インドの近代化への運動として、現在も進行しつつある、解放運動の大きな部分を成している。


2009年02月07日

細川澄元・細川高国

細川 澄元(ほそかわ すみもと)は、戦国時代の武将・大名。細川政元の養子。細川晴元の父に当たる。相伴衆の格式であった阿波細川氏(下屋形)の出身。
マリゴール ユーロシ 法則 プロキオ パティ フェンリル ロボコン プラン とうみ ドロン デザイナー ひかわ ウンギョー クロスバー デリシ 宿儺南瓜 フロアマ バナバ ぶどう ハツユ ァサード パイ セミダブル ミコロン スキャンダル ピザク トライアル ギンリ ビコル カデット ブレーン エイド ヒート フロアス エーエスピ シュリン くわい サイト冬瓜 紀州 レーシ うたしない ベジス ブック ノベル ジャル ワイフ ニュー フリ モラテオ はっとう

延徳元年(1489年)、細川義春の子として生まれる。父・義春は阿波守護であったが、早世していた。このため祖父の細川成之に養育された。

当時、管領として幕政を牛耳っていた細川政元には実子が無く、九条家から養子に迎えた細川澄之を家督継承者に定めていたが、これを廃嫡し、文亀3年(1503年)5月に養子として迎えられた澄元が家督継承者に指名された。ところが、これが原因で澄之・澄元は家督をめぐって抗争するようになる。永正3年(1506年)から永正4年(1507年)にかけて、政元の命令で澄之と共に丹後の一色義有を攻めたが、敗北している。

永正4年(1507年)6月23日、政元が香西元長や薬師寺長忠ら澄之の支持者によって暗殺されると、6月24日には澄元も澄之の家臣に屋敷を襲われ、三好之長と共に近江甲賀に逃走した。そして近江の国人の力を借りて勢力を盛り返し、8月1日には京都に侵攻して澄之とその支持者を討ち取り、8月2日には第11代将軍・足利義澄に対して細川家の家督継承を承認させたのである。

ところが澄元は若年だったため、家宰であった三好之長の実力が逆に大きくなり始め、澄元は之長と対立して一時は阿波に帰国しようとした。このときには足利義澄の説得もあって帰国はとどまっている。

このような京都における一連の内乱が、周防に流れていた第10代将軍・足利義尹(義材より改名)のもとに知らされると、義尹は大内義興に擁立されて上洛を開始する。澄元は義興との和睦を画策したが、同じく政元の養子で澄之討伐に協力した細川高国が大内方に寝返ったため、決裂してしまった。

永正5年(1508年)4月、細川高国が京都に侵攻を開始する。このとき、摂津の伊丹元扶や丹波の内藤貞正らも呼応したために澄元は敗北し、之長や将軍・足利義澄と共に近江に逃れた。そして6月、足利義尹が大内義興に擁されて上洛すると、義稙(義尹より改名)によって澄元の家督は剥奪され、代わって高国の家督継承が承認されることとなった。

ところが大内義興と足利義稙が対立し始めたため、澄元と之長は永正6年(1509年)に京都に侵攻したが、逆に高国と義興の反撃を受けて敗北(如意ケ嶽の戦い)し澄元と之長は阿波に逃走する。

永正8年(1511年)には足利義澄、細川政賢(典厩家)と連携して京都に侵攻する(船岡山の戦い)。しかし戦いの最中に義澄が病死したこともあって、大内義興の反撃を受けて大敗を喫し、政賢は戦死し、澄元は摂津に逃走した。

永正15年(1518年)8月、大内義興が周防に帰国すると、永正16年(1519年)に澄元と之長は摂津に侵攻する。永正17年(1520年)1月に入ると、澄元に呼応して山城で土一揆が発生し、さらに将軍・足利義稙も澄元に通じて裏切ったため、細川高国は単独で近江坂本に逃れた。これにより、澄元政権が成立する。

ところが5月、高国は大軍を集めて京都に侵攻する。これに対して澄元・之長らは兵を集めることができず、之長は捕らえられて自害させられ、澄元も摂津伊丹城に敗走し、政権は短期間で崩壊した。そして失意のうちに病に倒れた澄元は、まもなく高国の攻撃を受けて播磨に逃走し、最終的には永正17年(1520年)6月10日に阿波勝瑞城にて死去した。享年32。

後を子の細川晴元が継いだ。

細川高国
細川 高国(ほそかわ たかくに)は、戦国時代の武将・大名。室町幕府管領細川氏の庶流である野州家の生まれ。
実父は備中守護にも任命された野州家の細川政春である。細川氏嫡流(京兆家)の管領細川政元の養子となる。足利義澄(当時は義高)より諱を与えられ高国と名乗る。弟に細川晴国(ただし、晴国には実子説もある)。実子に細川稙国、養子に細川氏綱らがいる。

養父・政元が殺害された後の混乱を経て京兆家の家督を継ぎ、阿波守護家出身で同じく政元の養子であった細川澄元と両細川の乱と呼ばれる抗争を長期にわたって繰り返しながらも管領として幕政を握り続けた。しかし、最後に澄元の嫡男・細川晴元に敗れて自害に追い込まれた。

] 生涯
澄之・澄元との争い
文明16年(1484年)、細川政春の子として生まれる。高国が政元の養子となった明確な時期は不明であるが、澄之・澄元の後に養子になったようで、政元にとっては3番目の養子であった。

永正4年(1507年)6月、政元が澄之派の重臣・香西元長や薬師寺長忠らによって殺されると、8月に澄元は澄之討伐の兵を挙げたが、このときに高国は澄元を支持して討伐に貢献し、澄元の家督相続を承認した(永正の錯乱)。

ところが、この一連の政変を好機と見た周防の大内義興は、流れ公方となっていた前将軍・足利義稙を擁して上洛を開始する。高国は澄元の命令で義興との和睦交渉に当たったが、逆に義興と通じて裏切り、伊勢に逃れた。永正5年(1508年)には仁木高長、伊丹元扶、内藤貞正らと呼応して京都に侵攻し、澄元や将軍・足利義澄を近江に追放した。そして、大内義興と共に入京、足利義稙を将軍に復職させ、自らは7月18日に右京大夫・管領に任ぜられた。

永正6年(1509年)、澄元の重臣・三好之長が京都に侵攻を企てるが、大内義興と協力して退け(如意ケ嶽の戦い)、逆に近江に侵攻して勝利している。しかし永正7年(1510年)に近江に侵攻したときには、澄元方を支持する国人の反抗もあって大敗を喫し、一時、敗戦の責任をとって出家しようとしたほどであった。

永正8年(1511年)、澄元は細川政賢、赤松義村と連携して再び京都に侵攻する。高国は一時劣勢に追い込まれて丹波にまで撤退したが、澄元方の擁する前将軍・足利義澄の病死などにも助けられて、8月24日の船岡山の戦いに勝利した。

永正15年(1518年)8月2日、大内義興が周防に帰国すると、高国は単独で政権を掌握する。しかしそれを好機と見た阿波の細川澄元・三好之長らが永正16年(1519年)から摂津に侵攻。翌永正17年(1520年)2月に敗れた高国は、近江坂本に逃走した。しかし六角氏・朝倉氏・土岐氏らの支援を仰いで5月、再挙兵して京都に侵攻し、三好之長を自害に追い込み、澄元を摂津に敗走させた。

長年敵対を続けてきた細川澄元が同年6月2日に阿波で病死し、敵対者のいなくなった高国は天下人になった。ところが高国は味方として武功も多かった河原林政頼らに謀反の嫌疑をかけて殺害し、大永元年(1521年)3月には将軍・足利義稙と対立してやがてこれを追放、新たに足利義晴を第12代将軍として擁立した。その後、義稙の侵攻を何度か受けるが、大永3年(1523年)4月に義稙も死去したため、高国の勝利に終わった。

凋落
足利義晴を擁立した高国は、管領・武蔵守に任官された。大永4年(1525年)4月21日、剃髪して道永と号し、家督と管領職を実子の細川稙国に譲って隠居した。ところが12月に稙国が早世したため、やむなく管領・細川家当主として復帰する。

大永6年(1526年)、細川尹賢の讒言を信じて重臣の香西元盛を謀殺してしまった。これを知った元盛の兄・波多野稙通と柳本賢治らは細川晴元(澄元の子)や三好元長(之長の嫡孫)と連携して丹波で挙兵する。高国は細川尹賢を丹波に侵攻させたが、逆に敗退した。大永7年(1527年)2月には逆に柳本賢治や三好元長らに京都に侵攻され、桂川で迎撃したが敗れ、足利義晴を擁して近江坂本に逃れた(桂川の戦い)。こうして高国政権は崩壊した。

最期
最期の地となった広徳寺高国はその後、伊賀の仁木義広や伊勢の北畠晴具、越前の朝倉孝景、出雲の尼子経久らを頼って落ち延びていた。享禄3年(1530年)に柳本賢治が播磨出陣中に暗殺されると、浦上村宗と連携して京都に侵攻した。

しかし、晴元の重臣・三好元長の反撃を受けて享禄4年(1531年)3月10日の摂津中嶋の戦いでこう着状態になったが、6月4日には元長に敗れ尼崎に逃走した(大物崩れ)。元長の追跡は厳しく、紺屋の甕の中に隠れるが、発見されて甕の中から引きずり出され、6月8日の寅刻(午前4時)頃に尼崎の広徳寺で自害に追い込まれた。享年48。

辞世の句
「絵にうつし石をつくりし海山を 後の世までも目かれずや見む」と言う辞世の句を、北畠晴具に送っている。


2009年01月22日

ムウタスィム(794年?842年、在位833年?842年)

ムウタスィム(794年?842年、在位833年?842年)は、アッバース朝の第8代カリフ。第5代カリフで同王朝の最盛期を築き上げたハールーン・アッ=ラシードの八男。母は女奴隷のマーリダ。

カリフに即位する前は、アナトリアの軍総司令官やエジプト総督などを歴任した。

兄で第7代カリフであったマアムーンの死後、兄の子を押さえてカリフとして即位した。即位後は軍事面に力を注いだ。まず、この頃になるとアッバース朝の衰退が始まり、イラクなど各地で反乱が相次いでいたが、ムウタスィムはこれを徹底的に鎮圧した。837年、アゼルバイジャンで起こったバーバクの反乱も配下の将軍・アル・アフシーン・ハイザールの尽力のもと、鎮圧している。そして翌838年には自ら親征し、東ローマ皇帝・テオフィロス率いる東ローマ帝国軍を破ってアンカラ(アンキラ)とアンムーリヤを奪取した。この功績から、詩人のアブー・タンマームから偉大なるガージーと絶賛されている。しかし晩年の841年、『覆面の男』と呼ばれたアブー・ハルブらによる反乱がパレスチナやダマスカスなど各地で発生するなど、カリフの統制力弱体化は明らかであり、アッバース朝の衰退はさらに促進していったのである。

内政面においては、ムウタスィムは836年に都をバグダードからサーマッラーに遷した。これは、子飼いのマムルークをバグダード市民との迫害から守ろうとしたためであると言われている。しかしこれを契機として、ムウタスィム以後の歴代カリフが次第にマムルークを頼るようになり、その経緯からカリフの威を借りてマムルークが横暴を振るうことが多くなってしまったことも、カリフの権威低下と王朝衰退を招く一因となってしまった。

842年、死去した。ムウタスィムの死後、王朝はさらに衰退してゆくこととなった。

知恵の館(ちえのやかた; アラビア語:バイト・アル=ヒクマ, ??? ?????? Bayt al-?ikmah)は、830年、アッバース朝の7代カリフ・マームーン(在位:813年 - 833年)が、バグダードに設立した翻訳所・図書館。天文台も併設されていたといわれている。「知恵の家」とも訳される。

ギリシア語の学術文献(つまりギリシア哲学を大いに取り入れていく、ということになる)の、アラビア語への翻訳であった。時にはシリア語を介しての翻訳になった。

国家事業として、医学書・天文学(占星術を含む)・数学に関するヒポクラテス・ガレノスなどの文献から、哲学関係の文献はプラトン・アリストテレスとその註釈書など、膨大な書物が大々的に翻訳された(「大翻訳」)。 また、使節団をビザンツ帝国に派遣して文献を集めることもあった。

10代カリフ・ムタワッキル(在位:847年 - 861年)以降の反動期によって、活動が急速的に衰えていくこととなった。

スタッフ
スタッフの多くは、シリアのネストリウス派や単性論派のキリスト教徒、ハッラーン出身のサービア教徒であった。

ローマ帝国主要部のキリスト教は、4世紀から6世紀にかけて、「イエスは神の属性のみを持つ」という思想と、ギリシア哲学を異端としてしまった。そのため、ネストリウス派などは東方に逃れることとなった。

ヤハヤー・イブン=マーサワイヒ - 初代館長。キリスト教徒
フナイン親子 - 翻訳家。キリスト教徒
クスター・イブン=ルーカー - 翻訳家。キリスト教徒

影響
翻訳のおかげで、イスラム世界のさまざまな人々が、アラビア語で学問を論じ始め、アラビア語は知的言語・共通言語としての力を高めることともなった。

古代ギリシアからヘレニズムの科学や哲学などの伝統が、イスラム世界に本格的に移植・紹介され、独自の発展をたどることとなる。

ユダヤ教徒も、サアディア・ベン・ヨセフやマイモニデスは言うまでもなく、哲学関係の書をアラビア語で読み書きするようになった。それまでユダヤ教徒の間ではアラム語やギリシア語が共通語・日常語であったが、アラビア語に取って代わられるようになった(ユダヤ教やシナゴーグ、聖書解釈・詩作といったものなどに関する場面以外は、アラビア語で話し、書くようになっていった)。

その後
時代は飛ぶが、12世紀を最後に、イスラム世界におけるギリシア哲学研究は停滞し始め、ユダヤ教徒

も次第に哲学に関してヘブライ語で書くようになり(書き言葉としてのヘブライ語の復興)、ラテン語を学ぶユダヤ教徒も出てくる。

マアムーン(786年-833年、在位813年-833年; アラビア語: ??? ?????? ??? ?? ??????? ??? ????? ??????; ラテン転写: Abū al-?Abbās ?Abd Allāh Al-Mā'mūn ibn Hārūn al-Rashīd)は、アッバース朝第7代カリフ。弟アミーンとの間で内戦を引き起こし、アッバース朝はその全盛期を過ぎることになる。


経歴
マアムーンは第5代カリフ、ハールーン・アッラシードの長子として786年9月14日に生まれた。実名はアブドゥッラー。母はイラン系の女奴隷マラーズィルであるが、マアムーンの誕生後まもなく没したため、ハールーン・アッ=ラシードの正后ズバイダのもとで育てられた。

アブドゥッラーは長子であったが、794年、次男のムハンマド(のちのカリフ・アミーン)が第一後継者に指名された。これはムハンマドがズバイダのなした子であったためである。ズバイダは第2代カリフ・マンスールの孫で、ハールーンのいとこに当たっており、ムハンマドは両親ともアッバース家のもので、その貴種性はまぎれのないものであった。アブドゥッラーが第二位継承者に指名されるのは799年のことである。ハールーン・アッ=ラシードは生存中に、二人の息子に誓書を作らせた。太子ムハンマドには、次代のカリフには兄アブドゥッラーを指名すること、帝国の東半分の統治は兄に一任することを誓わせた。一方、アブドゥッラーには弟のムハンマドがカリフ職を担う際には忠誠を尽くすことを誓わせた。この誓書は『マッカ文書』の中に入っており現存している。
リティ ハーフタイ ラサSEO ナビみさわ プローブ いきな オストミー ゼロワン フェイ ユータ メイス ドッグレ オール のんき フィジー ソニア ジューサ トハギ コート ナーグプ ちょくん ロイヤ フラック カスタマー ポンチ 影ふみ ニップル ハンブル 時代屋 ドッキン オンフ タウン むほん ブロード ジルサン パレタイ セリュ すぺあ トレッド ディベー ディーズ フラワー レジャ フォーマ シランレン メゾン お手玉 デモクラシ 竹てっぽ ダボス

809年、ムハンマドがカリフに即位、アミーンを名乗る。アブドゥッラーは直ちに任地マルウを中心とするホラーサーンヘ引きこもった。しかし、間もなく811年、アミーンは誓書の誓いを破り、兄のアブドゥッラーを差し置き、息子ムーサーを後継者とする意向を示した。アブドゥッラーはこれに対抗してイマームを名乗った。811年3月、まずアミーンが討伐軍を差し向けた。これに対してマアムーンは、イラン系の名将ターヒルを司令官に任命して応戦した。812年3月、アブドゥッラーは公式にカリフ・マアムーンを名乗る。アミーンの方は、母がアラブ人だった事もあり、アラブ人を軍の主力とし、マアムーンはイラン人を軍の主力とした。812年の夏には、ターヒル率いる軍はホラーサーンからの増援も加えてバグダードを包囲した。アミーンもよく防いだが帝国諸地方が次々にマアムーンになびき、813年9月に陥落。アミーンは捕らえられて殺害された。

しかし、マアムーンは以降も慎重を期して、マルウでしばらく事態を静観していた。その後、彼は驚きの行動に出た。反アッバース朝の運動をたびたび起こすアリー家のものを後継者に指名したのである。816年に、ムハンマドの血統でマディーナ(メディナ)に住んでいたアリー(シーア派・十二イマーム派における第9代イマーム)を呼び寄せ、817年には自分の後継者として指名。周囲にも忠誠(バイア)を誓わせ、アッ=リダー(神の嘉せし者)という称号を与えた。そればかりか、アッバース家の色は黒であったが、マアムーンはこれをアリー家の緑色に変えてしまった。この処置は、アッバース家の人々だけでなく、イラクの住民達をも怒らせてしまった。バグダードではマアムーンの叔父の一人がカリフに推されただけでなく、各地で反乱が勃発した。イラク地方で、マアムーンに忠誠を守り続けたのは、バスラ総督のみであり、他の者はことごとく反乱軍に荷担した。マアムーンは、マルウに留まる事ができなくなった。マアムーン一行は、818年の末にアル・リダーを伴い、大挙して西に向かった。しかし、トゥース近郊まで来た時、アリー・アッ=リダーは急死してしまった。シーア派ではこれをマアムーンによる毒殺とし、当地はシーア派聖地マシュハドとなっている。マアムーンは、アリー・アル・リダーをトゥース近郊のハールーン・アッ=ラシードの墓所の近くに埋葬すると、そのまま前進を続け、即位6年目にして、ようやくバグダードに入った。だが、それから後も、彼の治世中に多くのバーバクの乱など反乱が多発する。このなかでホラーサーン方面をターヒルにゆだね(ターヒル朝の創業)、マアムーンは晩年には、ビザンツ帝国との戦いに明け暮れる事になった。なお830年のビザンツ遠征でシリアのハッラーンを通過したさい、マアムーンが住民に啓典宗教への改宗を命じたことが、いわゆる「ハッラーンのサービア教徒」の起源となる。

マアムーンは文化の発展に力を尽くし、アッバース朝の中で最も教養が高く、学問を愛したカリフと言われる。彼は開明的な君主で詩を愛好し、天文学・数学・医学・ギリシア哲学について造詣が深く、特にユークリッドの幾何学に精通していたという。マアムーンは、ギリシアの学問を尊重し、ギリシアの文献収集に力を入れ、それらの文献をアラビア語へ翻訳する事を奨励した。マアムーンは優秀なギリシア語学者を多く集め、830年頃にはバグダードに「知恵の家」を建て、このように彼らを優遇し、存分に才能を発揮させた。マアムーンはここを、ギリシア文献翻訳の本拠地とした。この場所には、フナイン・イブン・イスハークを初めとする、卓越した学者達が多く集ってきた。この知恵の家には、立派な天文台や図書館があり、経緯度の測定、天体の運行表の作成やその他の活動も行なわれた。大地の大きさの計算などは、ほとんど現代のそれと変わりがなかったという。しかし、このような関心は単なる個人的文化的傾向とすることはできない。ムゥタズィラ派の公式教義への採用ともあいまって、イスラームにおける権威のありかとその理論を一歩進めようとしたものと考えることもできる。

また、マアムーンはエジプトに行った折に、ピラミッドに穴を開けさせ、内部の調査もさせている。833年にマアムーンは、タルスス付近の宿営地で死去した。

2009年01月15日

ダイダラボッチ

ワンド エリア ショール 二十世紀 スタス テーブ アニマロジ マクロレ オイスタ ライスワン キック フィー カウツギ バンダナ ディージ オクラ テランセラ タヒボ リーフ 夜汽車 カウチ ふたり星 ユリ最適 時空ド ミリタリー サギソウ トライプ ドーベ メリル プレタク チューブ カムカエ ラッター ソーサー ラクト バック 朝日が昇る ジプサム フェロモア ション デュアル ウォマ フラッシュ ルコア サイホン シンク タイガ デキャンタ ディスコン テーピング

ダイダラボッチは、日本の各地で伝承される巨人。山や湖沼を作ったという内容が多いことから、元々は国づくりの神であった可能性が指摘されている。

柳田国男は『ダイダラ坊の足跡』(1927年(昭和2年)4月中央公論社)[1]で日本各地から集めたダイダラボッチ伝説を考察しており、ダイダラボッチは「大人(おおひと)」を意味する「大太郎」に法師を付加した「大太郎法師」で、一寸法師の反対の意味であるとしている。

名称
「でいだらぼっち」、「だいらんぼう」、「だいだらぼう」、「でいらんぼう」、「だいらぼう」、「だだぼう」等がある。名前以外にも様々な派生が見られるが、何かをしようとするが失敗し、悔しがって去って行くという内容が多い。

通常は目の数は言及されず山を運んだりすることから相当の巨体であるとされるが、一つ目とされる場合は、目の数に言及されない場合に比較して概ね小型で身長10m程度である場合が多い。足の数は何かを「一跨ぎ」する表現が多いことから二本足と考えられるが、一つ目の場合は1本足とされることが多く、一つ目入道あるいは一つ目小僧と習合したものと考えられる。

風土記

常陸国風土記
『常陸国風土記』那賀略記には、次の記述がある。

平津驛家西一二里,有岡,名曰:大櫛。上古有人,體極長大,身居丘壟之上,手摎海濱之蜃[大蛤也]。其所食貝,積聚成岡。時人,取大朽之義,今謂大櫛之岡、其踐跡[長卌余歩,廣廿余歩,尿穴徑可廿余歩計]。

播磨国風土記
『播磨国風土記』の託賀郡(多可郡)の条には次のとおり同地の天が高いといい足跡が数多の沼になった大人(おおひと)伝説が記されており、『常陸国風土記』の伝説と同種であると考えられている。同郡では製銅が盛んだったようで、金属生産と巨人という出雲国の例との共通点もみられる。

一 託賀略記 託賀郡 右 此當為上 所以名 託賀者 昔 在大人 常勾行也 自南海到北海 自東巡行之時 到來此土云 他土卑者 常勾伏而行之 此土高者 申而行之 高哉 故曰 託賀郡 託賀 此云たし 高也 申 伸也 其踰跡處 數數成沼

柳田國男の著書『妖怪談義』にて相模原市大沼に調査に行ったとの記述あり。その地ではダイダラボッチの伝説は無かったと落胆しているが、ダイダラボッチ伝説があるのは北に5kmほどずれた鹿沼であった。
土地によって伝承される内容が異なり、作ったとされる山や沼も異なる。
東日本の大きな火山にまつわる伝承が比較的多い。
山を作る・運ぶ
富士山を作るため、甲州の土をとって土盛りした。そのため甲州は盆地になった。
上州の榛名富士を土盛りして作った。掘った後は榛名湖となった。榛名富士が富士山より低いのは、もう少し土を運ぼうとしたが夜が明け、途中でやめたためである。
浅間山が、自分より背の高い妹の富士山に嫉妬し、土を自分にわけろといった。富士山は了解し、だいだらぼっちが自分の前掛けで土を運んだ。しかし浅間山は土の量が足りないと怒り、彼を叩いた。その際にこぼれた土が前掛山となった。怒りだした浅間山はついに噴火してしまった。
西の富士、東の筑波と呼ばれる関東の名山の重さを量ろうとし天秤棒に2つの山を結わえつけ持ち上げると、筑波山のほうは持ち上がったが富士山は持ち上がらない。そのうちに結わえていたつるが切れ、筑波山が地上に落ちてしまった。その衝撃でもともと1つの峰だった筑波山は、2峰になってしまったという。
足あと・手のあとを残す
上州の赤城山に腰掛けて踏ん張ったときに窪んで出来た足跡が水たまりになった。木部の赤沼がそれである。
長野県大町市北部の青木湖、中綱湖、木崎湖の仁科三湖はダイダラボッチの足あとである。
茨城県水戸市中央部の千波湖は、かなり大きいがダイダラボッチ(この地方ではダイダラボウ)の足跡である。
遠州の山奥に住んでいた巨人ダイダラボッチが、子どもたちを手にのせて歩いている時に、腰くらいの高さの山をまたいだ拍子に子どもたちを手から投げ出してしまった。びっくりした子どもたちとダイダラボッチは泣き出してしまい、手をついてできた窪みに涙が流れ込んで浜名湖となった。
現在、東京都世田谷区にある地名「代田」(だいた)やさいたま市の「太田窪」(だいたくぼ)はダイタラボッチの足跡である。
静岡市のだいらぼう山頂には全長150mほどの窪みがあるが、ダイダラボッチが左足を置いた跡と伝えられている。琵琶湖から富士山へ土を運ぶ途中に遺したものであるという。
相模原市の伝説ではデイラボッチと呼ばれ、富士山を持ち上げ違う場所に運ぶ途中、疲れたので、富士山に乗っかり休んだところそこにまた根が生えてしまいもちあげようとするが、持ち上がらずそのときふんばった所が今の鹿沼であるという。
小便をしようと飯野山(香川県中部)に足をかけた際に山頂付近に足跡が付いた。(現在もその跡であるという伝説の足跡が残っているが非常に小さい。)なお、その小便の際に出来たのが大束川といわれる。
休む・洗う
榛名山に腰掛けて、利根川で脛を洗った(ふんどしを洗ったという説もある)。
羽黒山 (栃木県)には人間がまだ誕生しない大昔、でいだらぼっちが羽黒山に腰掛けて鬼怒川で足を洗ったという言い伝えがある。
長野県塩尻市の高ボッチ高原はダイダラボッチが腰を下ろして一休みした場所であるという。
人間を助ける
秋田県の横手盆地が湖であったので干拓事業を行った際、だいだらぼっちが現れて水をかき、泥を掬ったため工事がはかどった。このだいだらぼっちは秋田市の太平山三吉神社の化身と考えられる。
愛知県東海市の南側に加木屋町陀々法師(だだほうし)という地名があり、ダイダラボッチが歩いて移動する際に出来た足跡が池になったとして伝説が残っている、名古屋鉄道八幡新田駅西側にあったが2000年(平成12年)頃に埋め立てられて現在はその形跡ない。